昭和52年5月23日 月例祭

今日、午後の研修をさせて頂いております時に、ある教会のご信者、が、はじめてお参りをしてみえました。えぇ、お届を聞かせて頂きますよと、もう一年ぐらい前から、その教会の御造営が思い立たれた。ところが一向に話が盛り上がらない、どころか、信者は、もう、段々お参りが少なくなってきて、現在お参りをしておる者が、まあ14・5名ぐらいになってしまいましたと言う。何とか、あぁ御造営の事が成就致しますように、して信者の足並みが揃うよういという、まあ願いだったと思うのです。で私は、ちょうど、宮崎の日向市の、日向教会の教会長先生が、2・3日前、お礼の手紙、またお願いの手紙がまいっておりましたのを、見てもらいました。その先生は、あぁ、先だってから、まあ一月ぐらいになりますでしょうか、ちょうどお月並祭に、ん、おかげを頂かれて、そして一晩泊まりで、明くる朝の御祈念を頂いて帰らえました。その先生からのお礼の手紙です。えぇ、そこでもやはり色々、教会に色んな問題がございましたが、おかげを頂いて、えぇ合楽から帰らしてもらい、そして、合楽理念ということは詳しくは分かりませんけれども、ね、一言でも実行させて頂こうと思うて、なら勉強させて頂いておりましたら、教会が始まってこの方初めてという程しに、さほど広いお広前でもないでしょうけれども、溢れるようなご参拝を頂いて、盛大なご大祭を奉仕することが出来ましたということが、もぉう本当に有難いという、その文章で、あのお礼の手紙が来ておりました。そして、えぇ、ご信者方の色んな難儀な問題を、おぉ、こういうような、おっ、お願いに来ておる、こんなお伺いがあっておる、それをどうさせて頂いたら信心になりましょうか、おかげになりましょうかということが、また色々詳しく書いてあります。最後には私の家内っち、いわゆる先生の奥さんでございましょう、が、その、まだ合うたこともない合楽の先生のお夢を頂きましたと。そのお夢は、その、いわゆる、そこの教会長先生が、が、あぁ、私に手をしっかり握られて、そしてその大奥にと書いてあります、大奥に、そのぉ、案内を受けておるところを頂きました、主人はもう初めてのことで、もう、きょうっ、感激して、そのおる模様でございましたが、ね、いやそのことはもう私は分かっていますと言うて、先生はもう、とうから分かっておられたかのようにして、あの裏の方へ、いわゆる大奥に連れて行かれるお夢を、家内が頂きたと申しますが、まあどういうことでございましょうかという、手紙の内容でございました。でその手紙を読んで頂いた。
それでそのことを今日、西岡先生に返事を書いて頂きまして、御神米に、んん、心一つですべてが、、、、「心一つですべてを創る」でしたかね、創造の創です、えぇ和賀心時代を創るの創るです、2・3日前に頂いた御理解でした。ね。とにかく、「合楽の先生がこういうことを言うた、けれども」と言うたらおかげは受けられない、それを素直に聞いて受けて、そしてそれを一言でもと実行するところに、今までかつてない盛大なご大祭を奉仕することが出けた、「ならこの先生のお取次ぎを頂くならば、こりゃいよいよもっと信心が分かるだろう、おかげも頂けるだろう」というので、えぇ、言わばご信者さん方の色んな難儀な問題も赤裸々にお取次ぎを願われた。でそれ一つ一つに、「それはこうですああです」とまあご返事だけをさして頂いたんですけれども、それを、今日お参りしてみえた、のご信者さんに、示さして頂いて、ね、例えばここの御造営がこのように段々、あぁ立派になって行っております、もうここが建って10年、5年祭には新館が出け、今度10年祭には、裏に、丁度4反ですから、あぁ1800坪の敷地も購入することが出来るというように、えぇ一つ一つおかげを頂いておる。勿論それはご信者方の真心にあることでございますけれども、ね、結局は私の心一つでこの御造営は出けたんですよと、言うなら私の心一つでこれは創ることが出けたんですよと。ね。だからそういう例えば、なら御造営がおもわっ、思い立たれた、神様が喜んで下さるに違いはない、ことが、あぁ、願いが立てられて、ね、ま言うならば、月次祭度なた月次祭たんべんに、そのお話があるでしょう。ところがその話が出てくるたんべんに、信者が減っていく。どうしたことであろうかと、ね、結局、心一つに信心を絞らないからだと私は思います。
今日のお月次祭に、沢山花がお供えがしておられます。もうそれこそカーネーション、白のカーネーションが1把、赤のカーネーションが1把、菊が1把、それに、えぇ、百合の花が1把です。こりゃこんなん沢山、それこそ焚物ば締りけらごした、けだごたしてから、そのお供え頂いてる。それでこりゃせっかく頂いておるのに、お月次祭に、こりゃお供えしたけども、こう、おぉ、しただけではいけんけど、誰かこれを入れて下さる人があるならと言いよったら、あの、有田さんという、清松さんのお姉さんにあたります。ちょうど夕方参ってみえて、それでその、おぉ、両端に、あの綺麗に、まあ入れあげて帰って下さったということです。どんなに素晴らしい花があっても、それを入れ揚げ、生け揚げれる、やはり技術というものが無かったら、その花も大したことは、にはなりません、言うなら宝の持ち腐れになるようなことにすら、なりかねない。ね。真ん中に、これは昨日、久留米の井上さんの所の霊祭がございました、時に、えぇ御兄弟が皆集まれて、そして御兄弟の合作なんです。それで昨日お供えしたばっかりですから、ど真ん中にあのお供えがしてございました。ね。これはツツジが、こう、大きく入れてあります、形作っておるのはツツジです、山ツツジのような、赤な、赤のツツジが点々と咲いておる。それで真ん中に、えぇ黄菊白菊で、えぇその、花が整えられてあるという、まあ見事なお花であります。昨日その霊祭の後に、そのことを聞いて頂いたんですけれども、ツツジというのは、イライラする、ジガジガする、ね、言うならば不安定な心であります、のお知らせです。けれどもそういう不安定な心もです、言うなら合楽の信心のシンボルだと言われる、菊の花、黄菊白菊をもって、しかも道に、かなう生き方生け方がしてあります。そこにそのイライラのツツジも見事に決まって一つの立派な花を形創っておるのです。ね。私共の心、言うならば、心一つでなるという、心一つで創ることが出けるという心とは、どういうような心であるかということを、信心は求めていくのです。ね。ですから自分の心の中にです、ね、おかげの受けられない、言うなら元を発見して、それを取り除いていくというこを、まあ改まっていくとこう、言うわけです。ね。例えば私共にはどうにもしようのない心、それこそ自分の心ですけれども、自分で思うようにならない、こういう心の状態になれば、ね、おかげが頂けれるんだけれどもと分かってるけれども、中々自分の心がそういうおかげの頂けれる方へ、コロコロと転がって行かない。ね。まあ色々例えば、勤めに出ておる人がね、会社なら会社で嫌な思いをした、もうこれがムサクサする、けれども家には優しい奥さんがおって、「おかえりなさい」と、そして、まあなんとか色々心尽くしを、に触れておると、そのムサクサも解けてくる、または可愛い子供が家に待ってある、「お父さん」と迎えてくれるともうその途端に、自分の心が明るくなる、不思議なもんですね、心というのは。ね。それを私共は家内ではない、子供ではない、ね、自分自身のその心を、教えに基づいて、有難い心にしていこうというのが信心なんです。不思議です。自分の心がどうにも出来ない、そしてそこに教えを頂いておる内に、ふっと何かに触れた時に、今までの心が、それこそ嘘のように有難い心に変えていくことが出来る。
昨日の朝の御祈念に、久留米の稲垣さんがご参拝になってお届があった。「今日は今朝方から大変なお夢を頂きました」と、「どういうお夢でしたか?」と、それが先生がちょうど朝の4時の御祈念をなさっておられるように、この御簾の中で、ね、本当に有難い御祈念があっておる、模様であった、それで先生がこちらへ出てみえて、沢山の方達、合楽のご信者方が、ここで一人ひとり玉串をあげなさなければならない、ところがもうあんな親先生の顔を見たことがないというように、もう凄まじい形相で、信者の一人ひとりを大変お叱りになっておるところでございました、勿論叱られておる中に自分も入っておる、どういうことを叱っ、られておるかというと、玉串の持ち方が違う、あげ方が悪い、ね、「そういうことじゃないこうだ」と言うて、もうその怒っておられるお夢であったという。皆さんの一人ひとりが、やはり怒られておると思わなきゃいけません。玉串というのはここでは、ね、自分の心真心に、喰い刺し貫いて神様へお供えをする、神様が受けて下さる心、ね。「そういう心で神様が受けて下さるものか、おかげを頂きたいと言いながらそういう心根でおかげが頂けるものかと、勿論そういう心でお徳は頂けれるはずはないじゃないか」と、もうそれこそ凄まじい形相で親先生が一人ひとりを怒っておられるところであったと言うのです。ね。
「心一つですべてを創る」程しの心とはこういう心なんだぞと教えて頂く、そういう心にならせて頂くためには、こういう信心があるぞ、こういう風に自分を見極めていかなければならない、そしてこういう風に改めて行かなければならないということを、教えてあるのにも関わらず、例えばならお月次祭にお参りをして来る、言うならば、あぁ、8時からのお祭であるから、ね、お祭に遅れないように、親先生の霊様の御祈念もご一緒に頂かせてもらおうというその心が起こる、その心が既に神様に向いたんです。ね。ところがお参りさせすりゃええ、まあ、あぁお説教頂きさえすりゃいいといったようなことでは、もう神様がそういう心では受けて下さらんのである、お祭ならお祭に対するそれは心であり思いなんだ、ね。人と接する時に、事をなす時に、今自分の心というものが果たして神様の心にかなうような心でこれをなそうとしておるか、会おうとしておるかということを先ずは確かめなければならない。自分の心というものを、いつも心行によって有難いというものを、言わば頂き続けていく精進をさせて頂いておるのですけれども、ね、やはり色々な事に合います時に、それが乱れてくる。
私はこの頃、ん、どういう心の中に、例えばなら、私でも切ない思いをすることがある。本当に一緒に、えぇ、皆さん方の難儀を聞かせて頂いて、もらい泣きするようなこともある、ね、そういう例えば切ない思いをする時にでもです、この頃は末永先生が事を思いますと、不思議に一辺に晴れてしまうんです。不思議です。自分の悩みがいっぱい、100なら100の悩み苦しみを持っておるけれども、ね、200の苦しみで一生懸命精進をしておる人達の事を、思うただけで自分の、言うならば苦しみといったようなものは、もう本当に嘘のように無くなっていく。その心がおかげをキャッチするんです。ね。ですからそういう心の状態の時にです、ね、事をなしたり行うたりしても、おかげにはなりません。ね。だからいつも玉串を奉らして頂く時にです、お粗末があるならお詫びをする、ね、汚れておるなら汚れておりますことをです、ね、、、、、
私は椛目時代に、えぇ御結界に座らして頂いて、皆さんのお取次ぎをさして頂く時に、どうぞ氏子の世界と神様の世界を取り結ぶ所がこの御結界である、言うならばそれを取り結ぶ所の橋のようなものである、ところがその橋そのものが破れておる、壊れておる、手すりが欠けておる、橋の真ん中に大きな穴がほげておる、それが明るいならばまあ良いけれども、この、言うなら光が無い、ですからここでご信者さん方がこの橋を渡られる時に、この汚れた橋で汚すようなことがないように、この破れた所から漏れ落ちるようなことが無いように、ね、光がございませんから、どうぞ足元を用心して神様の世界へ渡っていけれるような、おかげを頂かせて下さい、いや私の心がそれなので、破れておるのですから汚れておるのですからと、ね、その詫びる素直な心にです、言うならば健気な心に、神様はそれを、ね、汚れておっても汚れていないかのように、言うならおかばいを下さる、破れておっても、おぉ、破れておらんかのようにおかげを下さるのが神様です。
昨日でした、ある方のお導きで、えぇ参ってまいりました。その方の友人が、私の方の店に7年間、もう一生懸命に私の手に足になり、片腕になって働いてくれたのが、もうそれこそ、天馬に逃げられたのか、ね、魔が差したのか、泥棒をした。それがやっぱりちょっとした泥棒じゃなかったらしくて、とうとう体刑ということになって、えぇそれが来年辺りは出て来ることになります。私はその日の事を思うと本当に胸が苦しゅうなる。人にはそういう事をして悪い事をしたかも知れんけれども、私の店にとっては大変役に立ってくれた彼でございますから、出てまいりましてから、人が、まあ例えば、請け合わんというようなことがありましょうから、そのまま自分の家に入れたいと思う、丁度昨日の研修があっておる時に参って来ました。ね。そしてその研修の中でです、ね、神様が、ね、例えばあの人は仏様のような人じゃ、神様のような人じゃと言うても、次々難儀な事が起こってくるとどうしたことであろうかという事が世間ではあろうが、と、信心しておかげを受けるのは別物じゃと、人の良い悪いとは別物だという御理解に基づいての研修でした、ね。例えば自分の踏み行うておることに、真の道にかなうならば、ね、神様は祈らずにでも守って下さるんだろうといったような考え方は間違いなんだ、ね、あれは志那辺りから来た、言わば思想であって、信心というものはそんなものではない、その証拠には、「あの人は神様じゃ仏様じゃ」というような人でも、難儀をしておる、いや一生、言うなら(?)に甘んじて終わらなければならないということになろうがと、ね、信心しておかげを受けるということは悪人であっても、それが例え泥棒であっても神様がおかげを下さるというのは、その悪人にでも泥棒でも、神様の方から求めて交流を願うておられるからだというごりっ、研修があっとったんです、それを後ろで聞かせて頂いて、それこそもう、もう本当にびっくりしたんですね、この神様は大きな神様だと、大変な神様だと、例えば泥棒とでも、「神様」と言うて手を合わしてくるならばです、神様の方から手を握り合おうとなさっておられる神様だと、交流しようとなさっておられる神様だと、それは、ね、それこそ親神様だから、それこそ屑の子があれば屑の子ほどかわいいという親心がそういう風に現れてくるんだと、「そういう者どん導いて来てもらっちゃ困る」ということじゃないということ。「もう私は今日のお話を頂いてもう驚きました。来年は出て来るであろう、その友人をです、どうでもまた元通り自分の店で働いて、更生してもらわなければならんためには、私が少し信心の稽古をさしてもろうて、彼にも信心を一緒にさせて頂く」というようなことまで、ここでお誓いのようなお届をして帰られました。ね。
この神様は、そういう悪人、泥棒というような、者でも人にでも、交流を求めておられる神様なんだと、そりゃなら私どんそげな悪い事はしとらん、毎日お参りはしよると言いながらもです、自分が奉っておるその玉串というのは、そういうあげ方では神様には通わん、神様がそういう交流を求めておられるのだけれども、日頃懇々と教えを頂く、言うなら合楽理念に基づいたらここんところはどうあらなければならないかということを、先ずは自分の心に問うてみて、改めるところを改め、改めきらんならば、芯からそこを詫びる姿勢で玉串を奉らしてもろうたら、神様が詫びれば許してやりたいのが親心だという神様なんだ、ね、それを詫びんもせず、改まろうとも、いや平気でうかつにしておるという事を親先生が、もうそれこそ今までかつて見たことのないような形相で、一人ひとりを怒っておられるというところをです、銘々が一つ、自分自身が怒られておるんだと、こういう心では神様に交流しない、神様が受けて下さるはずはないと、いうものを追及していかなければならん、ね。
先ほど、戎浦先生が、前講をしておりましたが、耳が遠いから良く聞こえませんけれども、終いにはとうとう泣き出してしもうた、どういうこと言うたかひとっ、さっぱり分からなかった、けれどもはじめのところを、こう聞かせっ、えぇ、とにかく先生との心の、言わば、その、バランスが取れずというのじゃない、えぇ、この一つのリズムがね、いつも合楽に奏でられておるところの、おぉそのリズムに乗るということを言っておりました。「はぁ親先生は今日はこういう生き方でいこうとなさっておられるな」と朝の御祈念の時に分かるわけ、だから私もその気にならせて頂こうと、いうそれに合わせていこう、それを勉強させて頂こうという、そういう話のようでした。ね。そういう話をしておったら、むせんできてからお話がお話にならないようになった、ね、あれは戎浦先生の感動ではない、私は神様の御感動だと思うんです。ね。神様の心に合わせるいこう、合わん、中々合わんけれども合わせて頂こうとする、その精進なんです、そして合うた時の有り難さというものは、それこそリズミカルな、言うならば素晴らしいタイミングもまた生まれてくる道理であります。ね。心一つで、、言うなら、今日私はある方、信者さん、お参りして来た信者に申しましたように、なるほどここの御造営というのは2年半かかった、ならみんなの信者の真心で、が結集されてこれが出けた、けれども誰がどうして誰がどうお供えをしたからということは全然皆目誰も知らない。ね。そしてなら、誰が、そのお供えをしてから、田地田畑を売ったとか家をたおしたという人も一人もない、皆おかげを頂いておる、そういう働きが起こったというのは、私の心一つでこのお宮が御造営になったということになるのです。だからそういうおかげの頂けれる心とは、と心を、言うならば追及してまいります、ね、自分の心一つで頂けれるそのおかげをです、ね、ですから本気で心に取り組んでいなかったら、ね、神様が、ね、それは、ね、どういう屑の子であっても、どういうそれが悪人であっても、神様の方から交流を求めておられる神様だと、なら私共も交流を求めておるから交流して下さりゃええのだけれども、ね、それでは交流がならんのだ、そういうものがあっては、交流することが出来ない、ね、そこんところをです、私は本気で頂かしてもろうて、ね、いわゆるおかげの頂けれる心の状態をいつも目指さしてもらう、心掛けさしてもらう、それをなら合楽理念では心行だと言っておるわけであります。ね。
私共がどういう難儀を感ずる時であってもです、ある教えに触れた時にです、心が一辺に嘘のように取れてしまう、「はぁ今日は歯がゆい情けないことがあった、帰ったら奥さんがそれこそ優しく迎えてくれた、一辺で心がスキッとした、子供の笑顔を見たら、もうそれで何もかにも、心の嘘がはらわれたような思いがする、ね、そういう心の状態を信心に求めるということが、言わば合楽理念であります。合楽理念はそこのところの手がかりを、説いてあるのです。
これも戎浦のお母さんが先ほどここでお届しておりましたが、ね、もうそれこそこういう断崖絶壁というような所を、その、ある人が登って行かれるところを頂いた、どうして登れるだろうかと。だから、とてもこげん所に登れるもんかと言うたら、やっぱしもう登れないのですけれども、実際私が登らして頂きましたら、それが案外スッスと登って行けれる、しかも向こうの方には親先生がおられて、しかもそりゃなんとも言われん見たこともないような素晴らしい所で、もうそれこそ、これは、志那、志那料理であろうか、何の料理であろうかというような、お御馳走がいっぱい作ってある所へ案内を受けたお夢を頂いたと言うのです。ね。とてもそげなこつは私どんじゃ出けんと言わずに、やはり登る気にならなければ駄目だということ、そこにはちょっと登らせて頂く手がかり足がかりは神様がちゃんと作って下さる、そして通る所を通らなければおかげの世界には入っていけないということでございます。どうぞ。